『学問のすゝめ』を読む 初編

ひょんなことから、福沢諭吉著『学問のすゝめ』を読んでいます。

読み進めるうちに、今後のために内容をまとめておいたほうがいいぞという気持ちになったので、今日から一日一編ずつまとめていきたいと思います。

 

【人間の差はどこから生まれるか】

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」は、あまりに有名な冒頭文ですが、これは単に人間皆平等であるべきというような主張ではありません。

この後の論説としては、人間は生まれながらにして貴賤上下の差別があるのではないのになぜ頭脳の差、貧富の差、階級の差が生まれるのかと疑問を投げかけ、その答えとして、「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。」としています。

さらには、難しい仕事をする者は身分が重くなり、簡単な仕事をする者は身分が軽いといい、難しい仕事とは「すべて心を用い心配する仕事」で、簡単な仕事は「手足を用いる力役」といいます。

家柄などのため絶対的なものと考えがちな身分の差を「学問の力あるとなき」のみにあるとし、「人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。」と言い切っています。

 

【学問とは何を指すか】

上記にいう「学問」は、ただ難しい文字や古文を知ったり和歌を楽しみ詩を作るなどの「世上に実のなき文学」ではない。

このような「実なき学問」は後にし、まず学ぶべきは、「実学」であるといいます。

実学の例として、「いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等」、地理学、究理学、歴史学、経済学、修身学を挙げており、昨今の言葉で言えばリベラルアーツがこれにあたると思います。

いくら勉強をしても実にならなければ意味がないということでしょうか。資格マニアに警鐘を鳴らす言説に見えます。

 

 【分限を知ること】

この後の言説は、士農工商の身分制が崩れ、四民平等となった時代の国家観、国民が持つべき姿勢などについて述べています。

学問をするには分限を知ることが必要で、自由を唱えるばかりで分限を知らない者は我儘放蕩であり、「自由と我儘との界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。」といいます。

鎖国攘夷を唱えみだりに外国人を排斥しようとする動きを「実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずして我儘放蕩に陥る者と言うべし」と酷評しています。