dandeです。
映画公開から少し日が経ってしまいましたが、今回は『天気の子』の感想です。
初日に映画を鑑賞し、しばらくしてから小説を読破、そしてもう一度映画を鑑賞しました。それぞれの感想を書いています。
※ 本記事は、映画『天気の子』を鑑賞済みの方を対象としています。ネタバレを多く含んでいますので、まだ映画を見ていない方はブラウザバックをお願いします。
目次
【『小説 天気の子』】
【総評】
初 回・・・楽しめなかった。音楽の入りはかなり良かった。
小 説・・・登場人物の心理描写が補完された。あとがきは必読。
2回目・・・終盤で涙が出た。良い映画だった。
本作は、「大人の世界」と「子どもの世界」を描いています。
大人の視点で見るか・子どもの視点で見るかで、180度見かたが変わる映画だと感じました。
この映画を面白くないと感じた方は、恐らく「大人の視点」で見ています。大人として社会に染まっている、とも言えるかもしれません。
(少なくとも、初日に見に行った私は、そうでした。)
本作の主人公は、「大人の世界」(社会のルール、法律)に明らかに反した行動をとっています。
これをどう捉えるかが、評価の分かれ目になったように思います。
ただ、忘れてはならないのが、子どもが「世界の秘密」を知っていて、それを大人は全く信じていない(あるいは知ってて知らないふりをしている)という点。
終盤の拳銃発砲シーンでの須賀さんは、「帆高の味方」でありながら「理不尽な社会の側」にいるという構図になっているのが象徴的ですね。
小説版を読むと、帆高は少なくともそう捉えていることがわかります。
また、映画『天気の子』では、登場人物に感情移入できる要素がかなり削られており、メッセージ性をより際立たせた形になっていました。
それが映画の評価に影響している面もあるでしょう。
『小説 天気の子』を読むと、重要なシーンで、映画にはなかった心理描写があるので、一度映画を見てから小説を読むと、また違った感想を持つかもしれません。
【感想(映画1回目)】
かなり攻めたな、というのが正直な感想でした。
私は、前作『君の名は。』を公開初日に見に行ってから、計3回鑑賞するぐらいにはハマりました。
『君の名は。』も、『天気の子』と同様、主人公たちの心理描写をかなり削っていましたが、多くのテクニックを駆使して観客の感情を操っていたので、そこは特に気になりませんでした。
しかし、『天気の子』は、そこが気になってしまった。それもかなり。
帆高が最初に拳銃を発砲した後、そんな危険な家出少年と2人で廃ビルに逃げ込むという危険すぎる行動をする陽菜。そこからの「ねぇ、今から晴れるよ」「よろしく、帆高」で頭の中が「???」となり…。
そこから、何事もなかったかのように日常シーンに移ったところで、私は置いてけぼりになってしまいました。
その後も、帆高は刑事・警察署から逃走し、陽菜は雷でトラックを爆破、さらに夏美はバイクで逃走の手助け。
そして最後には、帆高が2度目の発砲。
どれだけ周りに迷惑をかけるんだ、と。
全体を通して主人公たちに共感できる所がほとんどなく、完全に冷めた目で見てしまいました。
それでも、音楽の使い方は、非常に上手かったと思いました。
(特に、終盤の「グランドエスケープ」)
…とまぁ、初日の感想は割と厳しいものがあったのですが、後日、映画のストーリーを結末から逆算して考え直してみると、序盤の陽菜の行動があながちおかしい訳でもないことに気づきました。
上記の「ねぇ、今から晴れるよ」のシーンも、陽菜がすでに母を亡くして弟と二人暮らしだという情報がなかったから余計に感情移入できなかったんだろうな、と。表向きは笑っていても実際は傷心していたんだろうな、と今ならわかります。
また、物語の重要なモチーフとして2回登場する「拳銃」は、子どもが大人に対抗するための道具として描かれており、1回目は誤射、2回目は明確な意志をもって発砲されました。
これも後から考えると、「主人公が、自らの生き方を選択する物語」という本作のコンセプトを象徴するアイテムでしたね。
そして、「大人の視点」で見るか、「子どもの視点」で見るかで、だいぶ見え方が変わってくるなと思います。
つまり、『天気の子』に登場する帆高の行動・心理が非現実的だと思う感情は、自分が現実をどう見ているかを表している、ということです。
帆高(子ども)の無茶な行動に対して大人の多くはこう思うはずです。
「なんでこんなバカなことをするんだ。何もわかってないな。」
では、そのように思う「大人」側は、どれだけのことをわかっているのでしょうか。
わかっているつもりでもわかっていないこと、知っているのに見て見ぬふりをしていること、結構ありますよね。
どうして帆高だけを批判できるのでしょうか。
こういうことを問いかけた映画なのかな、と思ったんですね。
情報は洪水のように溢れているのに、その「正しさ」を示してくれるものがない現代。
物事の表面だけを見て条件反射的に批判がされ、それがあたかも正しいものとして誇張される光景が、すでに日常化しています。
変な世の中になってきたよなぁ。
……と、思考が変な方向に行きはじめた辺りで、映画の感想は終わりました。
【感想(小説)】
映画を見てから約1週間後に、結局、小説版も買うことになりました。
ふと書店で見かけた時に、「あとがき」だけを読んだんですが、それがすごくしっくりきたんです。
映画を見た方は、ぜひ「あとがき」だけでも読んでみることをお勧めします。
特に重要だと思ったのは、↓↓↓の部分。
自分なりに心に決めたことがある。それは、「映画は学校の教科書ではない」ということだ。
映画は(あるいは広くエンターテインメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことをーー例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いをーー語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。
(中略)
「老若男女が足を運ぶ夏休み映画にふさわしい品位を」的なことは、もう一切考えなかった。遠慮も忖度も慎重さもなく、バッテリーがからっぽになるまで躊躇なく力を使い果たしてしまう主人公たちを、彼らに背中を叩かれているような心持ちで脚本にした。
(『小説 天気の子』P.295~296より引用)
この文章を見て、この映画の意図がはっきりわかったような気がしました。
それで小説を読むと、登場人物の心情が補完され、メッセージが伝わってきたように思います。
小説の中で、特に映画との差を感じたのは、すでに一度触れましたが、終盤の拳銃発砲シーン。
帆高の心情がしっかり描かれています。正直、映画ではこれは伝わってきませんでした。
どうしてーーと、須賀さんを睨みつけながら僕は思う。
どうして僕は、好きだった人に銃を向けているのか。どうして誰も彼もが、理不尽となって僕の前に立ち塞がるのか。
(『小説 天気の子』P.253より引用)
「なんで邪魔するんだよ?皆なにも知らないで、知らないふりして!」
もう意思とは関係なく、涙が勝手に込み上げてくる。銃口の先の大人たちの姿がぼやけていく。もう駄目なのか。もう終わりなのか。このままなにも出来ず、僕は捕まるのか。あの人にもらった勇気を、僕の中にあるはち切れそうな感情を、使わないまま僕は終わるのか。
「俺はただ、もう一度あの人にーー」
涙を流しながら、僕の全部が叫んでいる。
「--会いたいんだっ!」
(『小説 天気の子』P.255より引用)
自分勝手な印象は変わりませんが、少しは帆高に感情移入できそうな気もしてきます。
大切なもののために突っ走る、大人が決めたルールなんて知らない、という気持ちですね。
上記のほかにも夏美さんのバイク逃走シーンなども小説ならではの心情表現が書かれており、読んでおくべきかなと思いました。
【感想(映画2回目)】
という訳で、公開から1週間ちょっと経ってから、2回目を見に行きました。
今度は、IMAXで。
2回目は、すべて物語が分かったうえで見ました。
すると、気付いたのは、そのスピード感。
1回の鑑賞では到底追いきれない量の情報が、そこにはありました。
前作『君の名は。』も、1回では消化しきれない情報量を詰め込んだものだった、とインタビューか何かで見ましたが、どうやら『天気の子』もそれだったようです。
登場人物の心理描写が不足している感はやっぱり否めなかったのですが、その他の要素が1回目とは見え方がかなり違っていて。
最後の「グランドエスケープ」で不覚にも涙が出たぐらいには、映画に没入できました。
その直前の「愛にできることはまだあるかい」も、初回とは全く聞こえ方が違います。(IMAXだから物理的に聞こえ方が違うだけだったかもしれませんが…。)
もし1回目で全く面白くないという感想を持った方は、もう一度、それもIMAXで鑑賞することをお勧めします。
ではでは。