感想『僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版』(瀧本哲史 著、講談社文庫)

dandeです。

 

今回は、瀧本哲史氏『僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版』を取り上げます。

 

瀧本氏は、つい先日ご逝去されましたが、今まで著書を目にしたこともなく、ニュースを見て初めて知りました。

その後、過去のインタビュー記事を見て、その意見に共感したので、このたび著書を手に取った次第です。

 

 

  目次

 

 

【『僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版』】

 

 

 

 

 

【総評】

 

 

現代日本の問題点とその対抗策について、的確に記述した良書。

 

本書は、8年前に刊行された『僕は君たちに武器を配りたい』(瀧本哲史著、講談社)のエッセンシャル版です。

 

内容を読んでみると、8年前に書かれたもののはずなのに、ちょうど今現在問題になっていることが多く、「どこかで聞いた話だな」と思ってしまう箇所も多いです。

(これは筆者も承知の上で、向こう数十年通用する内容にしたというようなことをインタビュー記事で読みました。)

 

 

本書の内容を要約すると、コモディティになるな」に尽きるのではないかと思います。

 

結論として、筆者は「投資家」になることを提唱していますが、主張としては、「一攫千金を狙うのではなく、自分の時間と労力、そして才能を、何につぎ込めば、そのリターンとしてマネタイズ=回収できるのかを真剣に考えよ、ということ」(本書 P.20 より引用)だといえます。

 

 

コモディティになるな】

 

 

本書の第1章のタイトルは、「勉強できてもコモディティ

 

現在、全産業で広がっている「コモディティ化」により、単に資格を取得するだけでは生き残れないことを説明しています。

 

コモディティ」は、経営学や経済学で用いられる用語で、その概念について、筆者は次のように説明しています。

 

 市場に出回っている商品が、個性を失ってしまい、消費者にとってみればどのメーカーのどの商品を買っても大差がない状態。それを「コモディティ化」と呼ぶ。

 経済学の定義によれば、コモディティとは「スペックが明確に定義できるもの」のことを指す。材質、重さ、大きさ、数量など、数値や言葉ではっきりと定義できるものは、すべてコモディティだ。

 つまり、「個性のないものはすべてコモディティ」なのである。どんなに優れた商品でも、スペックが明確に定義できて、同じ商品を売る複数の供給者がいれば、それはコモディティになる。 (P.41 より引用)

 

コモディティ化した市場は、あらゆるものが「買い叩かれる」のが特徴です。

つまり、コモディティ商品を作る企業は、価格競争を続けていった末に、「売っても売っても儲からない」「ずっと商品を提供し続けるだけの飼い殺し」の状態に追い込まれてしまう。(P.43より)

 

そして、筆者の主張は、こう続きます。

 

 さて、私がここで声を大にしてお伝えしたいことは、「コモディティ化するのは商品だけではない」ということだ。「コモディティ化」は部品だけの世界の話ではない。労働市場における人材の評価においても、同じことが起きているのである。

 これまでの「人材マーケット」では、資格やTOEICの点数といった、客観的な数値で測定できる指標が重視されてきた。

 だがそうした数値は、極端にいえば工業製品のスペックと何も変わりがない。同じ数値であれば、企業側は安く使えるほうを採用するに決まっている。先ほどの外資系企業の採用の話でいえば、「TOEIC 900点以上」ならば誰でも同じ、という話なのである。

 だからコモディティ化した人材市場でも、応募者の間で「どれだけ安い給料で働けるか」という給料の値下げ競争が始まる。

 つまり資格やTOEICの点数で自分を差別化しようとする限り、コモディティ化した人材になることは避けられず、最終的には「安いことが売り」の人材になるしかないのだ。 (P.43~44より引用)

 

現在、資格予備校などに通っている方にとってはショッキングな内容かもしれませんが、ただ資格を取るだけでは、コモディティ化から逃れられないという主張です。

 

本書では弁護士の例なども挙げられていますが、資格のレベルが高いからといって、それのみで安泰とはならないことは、頭に入れておくべきだと思いますね。

 

 そこで求められるのは、マーケティング的な能力であり、投資家としてリスクをとれるかどうかであり、下で働く人々をリーダーとしてまとめる力があるかどうかだ。高学歴で難度の高い資格を持っていても、その市場には同じような人がたくさんいる。たくさんいる、ということならば、戦後すぐの、労働者をひと山いくらでトラックでかき集めたころとなんら違いはないのである。

 「弁護士いる?弁護士。日給1万5000円で雇うよ」といった具合に。 (P.148~149より引用)

 

 

【日本人で生き残る4つのタイプ】

 

 

本書では、コモディティにならずに「儲かるタイプ」として、次の6つを挙げています。

 

1.商品を遠くに運んで売ることができる人(トレーダー)

2.自分の専門性を高めて、高いスキルによって仕事をする人(エキスパート)

3.商品に付加価値をつけて、市場に合わせて売ることができる人(マーケター)

4.まったく新しい仕組みをイノベーションできる人(イノベーター)

5.自分が起業家となり、みんなをマネージ(管理)してリーダーとして行動する人(リーダー)

6.投資家として市場に参加している人(インベスター=投資家) (P.108 より引用)

 

そして、上記の6つのタイプのうち、今後生き残っていくのが難しくなるだろうと思われるタイプとして、「トレーダー」と「エキスパート」の2つを指摘しています。

 

それぞれの理由については本書を読んで頂ければと思いますが、ざっくりいえば「時代の変化によるもの」と考えてよいでしょう。

 

本書は、上記に引用したP.108 以降、1.~6.のそれぞれのタイプについて詳細に説明します。

示唆に富む内容なので、ぜひ読んでみてください。

 

結論としては、6.の「投資家」になるべきだと提唱されています。

 

つまり、これからは投資家的な発想を学ぶことがもっとも重要になります。

その理由として筆者は、「資本主義社会では、究極的にはすべての人間は、投資家になるか、投資家に雇われるか、どちらかの道を選ばざるを得ないからだ」(P.197)と述べています。

 

「投資家に雇われる」のイメージが湧かない方がいるかもしれませんが、現代のサラリーマンの多くが勤務している「株式会社」は、その成り立ちからもわかるように、株主のものです。

労働者側に立つか、株主側に立つか、で世界の見え方は大きく変わります。

 

私も、端くれながら株式投資をしていますが、株式投資をやる前と後とでは、ニュースへの関心度や幅、考え方などが明らかに変わったと感じます。

また、リスクとリターンについての考え方も少しずつですが、身についてきました。

 

 

【リスク計算の誤り】

 

 

筆者は、リスクについて、「計算管理可能なリスク」の範囲内で投資を行うことの重要性を述べています。

 

 人は往々にして、リスクの計算を誤る。たとえば年収400万円のサラリーマンが、家があれば老後も安心だからと、35年のローンを組んで年収の10倍以上の借金をして家を買ったとする。これは現在の日本の経済状況からいえば、非常にハイリスクな選択だ。

 

・・・(略)・・・

 

 日本では結婚して子どもができたあたりから、ローンを組んで家を買うのが当たり前のような風潮があるが、それは銀行や不動産会社などから「そう思い込まされている」だけの話だ。経営者でもない普通の人が、数千万円の借金を背負うのは家を買うときがほとんど唯一の機会である。

 そうすると、それだけの借金がどれぐらいの意味を持つのか、また35年というローン期間には、どんな予測不可能な事態が待ち構えているのか、正確なリスクを計算することができなくなってしまう。銀行と不動産会社が作った35年ローンという仕組みは、「リスクを正確に計算できない人々」を狙った商品であると覚えておいたほうがいい。 (P.203~204より引用)

 

そして投資家的な観点からすると、就職して一生サラリーマンの道を選ぶ、というのも35年ローンで家を買うのと同じぐらいハイリスクな選択だと筆者は言います。(P.204)

 

 サラリーマンとは、ジャンボジェットの乗客のように、リスクをとっていないのではなく、実はほかの人にリスクを預けっぱなしで管理されている存在なのである。 (P.207より引用)

 

サラリーマン生活に慣れると、そういうことも少しずつ忘れていってしまうのかもしれませんね。

 

リスク計算を見誤ることが、生活の根本を揺るがす事態になりうるということが良くわかる一節だと思いました。

 

 

【ゲリラ戦のはじまり】

 

 

本書の最終章のタイトルは、「ゲリラ戦のはじまり」。

 

内容については引用しませんが、今の日本に訪れつつある「本物の資本主義」の中で生き残るにはどうすればいいかが書かれています。

 

第8章の「投資家として生きる本当の意味」とあわせて、特に20代の若い人は必読だと思います。

立ち読みでも読める文量なので、書店で読んでみてほしいです。

 

ではでは。